メキシコの秘境で川下り
メキシコの秘境ラヴェンタ川での川下りは、まさに血沸き肉躍るアドベンチャー。想像をはるかに超える体験が待ち受けている。
このジャングルの迷宮に入り込んだら、1週間先まで出口はない。
渓谷から漏れ聞こえる、微かだった轟きが、刻一刻と大きくなっていく。この音の意味するところは、二つに一つだ――白く泡立つ急流か、目を見張るような瀑布か。さあ、パックラフト(1人乗りの急流用ゴムボート)の中で姿勢を正し、パドルを構えて、音の正体に備えよう。
グアテマラに近いメキシコ南部チアパス州の奥深く、マヤ文明の遺跡が点在する熱帯雨林の中を、ラヴェンタ川は80キロ以上にわたって流れている。曲がりくねった渓谷の両岸は岩壁で、その高さはざっと見積もっても、ニューヨークのワン・ワールド・トレードセンター以上はある。そしてラフティングでこの自然の迷宮に入り込んだら、1週間先まで出口がない。
「この川では、曲がり角に来るたびに、インディ・ジョーンズになった気分になりますよ」と、フリーランスガイドのジェイコブ・ムーン(moonmountainman.com)は言う。急流下りはメキシコをはじめ中米各地で行われているが、ムーンのツアーでひと味違うのは、パックラフトという非常に性能の良いボートを使用している点だ。
パックラフトはコンパクトかつ比較的軽量な空気注入式のボートで、従来の硬い素材のカヤックだと重くて運べないような場所にも持って行ける。また、小型のため狭い場所にも入り込める上、急流に挑戦する数日から数週間の冒険で使えるだけの耐久性もある。つまり、メキシコの渇水期にあたる春にラヴェンタ川を探検するには、パックラフトに勝るものはないのである。
ツアー会社の多くは、水量が多い雨期(秋)にラヴェンタ川での川下りを勧めるが、春、特に3月から5月にかけての川下りにもいくつかの特別な利点がある。1つ目は、地元当局の許可がないと入れないほど流れの激しいこの川が、比較的穏やかになることだ。ラヴェンタ川は一度入ったらなかなか出られないという手ごわさはあるが(渓谷の岩壁が険しく、脱出しようにも脱出できない)、水量が減ると急流の数も減り、体力さえあれば初心者でも下って行けるほど、難易度が低くなる。「初めての人でも、1週間くらい文明の快適さがなくても平気だという人なら、楽しめるコースですよ」 とムーンは言う。2つ目の利点は、水位が低ければ砂の河原がたくさん現れ、素晴らしいキャンプ場ができることだ。
出発地点は、にぎやかな州都トゥストラだ。ここでムーンは、探検ツアーの参加者らを出迎える。そして丸1週間、未開の地に赴く前にでき立てのタコスで元気を付ける。
運転することおよそ1時間、一行は渓谷の縁に到着する。そのままバンに乗ってさらに少し下ると、次の恐ろしい行程が見えてくる。ほとんど垂直な斜面に貼り付くように設けられた、高低差300メートルものジグザグのコンクリート道――ここを下りて行くのだ。下を見下ろしても、木々の緑が重大な秘密を隠すかのように茂っているため、川面は見えない。リュックには1週間分の食糧と、キャンプやパックラフトの装備が入っており、肩に、背中に、腰に圧しかかる。それでも1時間もかからずに道は平らになり、河原に降りることができた。視線を上げ、胸いっぱいに空気を吸い込むと、荷の重さも一気に吹き飛ぶ。目の前に広がる渓谷は、まさに息をのむ美しさだ。
右手には、エメラルド色の川がカーブの向こうに消えている。赤、橙、木、白のしま模様がある途方もなく高い岩壁に遮られて、曲がった先は見えない。左手、上流側では、水が丸石の一群を抱き込みながら流れている。それははるか昔、何らかの理由で数十メートルもの高さから川底に落ちてきた、かつての岩だ。見上げると、約30メートルの高さから流れ落ちる滝越しに、きらめく太陽の光が見える。よく見ると、滝の周辺にはたくさんの洞窟やトンネル、滝壺があり、まるで自然のウォーターパークだ。これは、遊んでいかねばなるまい。
ラヴェンタ川の渓谷や岸は、野生の楽園さながら。そして、夜のねぐらにもぴったりだ。翌朝はのんびりと朝食を取って、テントを畳む。パックラフトを膨らませ、装備を積み込んだら、いよいよラフティングに出発だ。
ラヴェンタ川の穏やかな流れは、神秘的な雰囲気に満ちている。ジャングルの緑の天蓋は、日差しを受けて時折虹色に輝き、蛍光グリーンのオウムは川面から300メートルの上空で空中ショーを繰り広げる。オウムの群れは30羽ほどだろうか。現れるのも突然なら、いなくなるのもあっという間だ。もし自分たちを空から眺めたなら、皆のパックラフトは色鮮やかな点のように見えるだろう。自分が本当にちっぽけな存在で、これから1週間、この迷宮から出られないという実感がひしひしと湧いてくる。
2晩目、滝に向かい合った砂州にテントを張る。今度の滝は、最初のものより長い。激しく飛び散るしぶきの下には、泳ぐのにもってこいの滝壺がある。ラヴェンタ川に合流している滝の数々は、川の水量を増やすのにも役立っている。水量が多ければ、岩の多い場所でも、パックラフトは浮くことができる。急流でもよどみでも、水量はある程度はあった方が楽に進めるのだ。
3日目と4日目はスムーズに進む。川や滝を越えるたびに、流量も増え、パックラフトの操縦がより簡単になっていく。最初の数日は急流に慣れるのに精いっぱいだった参加者も、旅の中盤頃からコツをつかみ、パドルさばきも手慣れたものだ。「川は、静から動へと、ほとんど休む間もなく変化します。そのため常に気が抜けません。でもだからこそ、ワクワクするのです」とムーンは言う。さっきまで遠かった轟音が、突然間近に迫る。これはカーブのすぐ向こうに、激流があるサインだ。いったん岸に上がって下見をすると、 急流の水量は十分で、1メートルほどの落差の後、静かなよどみになることが分かった。そこからまたもう1つ急流があり、再び穏やかになる。一行は戦略を練った後、1人ずつ、岸から流れに入って行く。
川を進み始めると、いよいよ激流と対決だ。パックラフトはまっすぐ流れに突入し、高く持ち上げられたかと思うと、たちまち逆巻く渦に吸い込まれる。体勢を立て直す間はない。すぐにきついカーブが迫り、次の急流へ。だがそこを抜けると急流は嘘のように収まり、水面は鏡のように静かになった。
ムーンは小さな入り江にパックラフトをつなぎ停めるよう、皆に指示する。この辺りにはちょうどテントを張るのに都合の良い広さの、平らな場所が数多くある。日が暮れると、虫やカエル、鳥、コウモリの鳴き声が音楽のように響き、星が瞬き始めた。焚き火が勢いよく燃え、実物より大きな影が岩壁に浮かび上がる。最初は動かなかった影も、身振り手振りを交えた楽し気な影になり、揺れる炎がやがて燃えさしとなる頃には、辺りを静寂が包む。
旅の終盤は、慎重な航路選びや下見など、水力学的な知識がより重要になってくる。技術的に難しい、流量が多い、堆積物があるなどさまざまの理由で安全な航行ができない場合、一行は迂回して陸路を進む。だが、たとえ川の難易度が高い場所でも、この頃には漕ぎ手の腕も自信も上がっている。はじめの2、3日は不可能だった急流でも、比較的楽に漕ぎ進めたりするのだ。全員で1つのゴムボートを操る一般的なラフティングと違い、パックラフティングはそれぞれ自力で川を下らなければならない。だが、決して孤独なスポーツではなく、互いに見守り、サポートし、チーム全体で助け合う。
最後の朝、川面にパタパタと規則正しい雨音が響く。一行はパドルを膝の上に乗せたまま、雨の中、ゆったりと流れに身を任せる。「これは現実?」「こんな美しい場所があるなんて」「この瞬間が永遠に続けばいいのに」
――皆の心の声が聞こえてくるようだ。だが全てのことに終わりがあるように、この旅もいつかは終わらなければならない。が、これで終わらないのが、ラヴェンタ川である。
滝を過ぎると、渓谷はますます狭くなり、ついには頭上まで完全に覆われたアーチ状になる。ここがアルコ・デル・ティエンポ、8000万年にわたって刻まれた自然のアーケードで、天井の高さは180メートル近くある。ここを出たところで、突然地元のガイドが崖の上に姿を見せ、木にロープをかけて川に向かって14メートルほど懸垂下降してきた。となれば、脱出手段は明らかだ。
ここが、この渓谷からの、最初の脱出可能な「出口」なのだ。ここからは登高器という特別な補助具が付いたロープで、岩壁をよじ昇る。登高器があると、上へは自由に昇れるが、下方向へはロックがかかり滑り落ちない。とはいえ、まさに「嘘だろ…」 と呟きたくなるほどの手ごわい出口だ。
一度に1人ずつ昇って行き、全員が昇ったらロープを引き上げる。陸地に降り立つと、急なハイキングルートが渓谷の外へと続いているのが見えた。ジャングルを抜け、地面が平らになるにつれ、道幅も広くなってくる。牧草地で草を食む家畜の姿が見えてきた頃、猟犬がフェンスのそばで吠え、一気に現実に引き戻された。
小さい村へ入ったところで、トウモロコシで作った温かい自家製トルティーヤ、豆、チリコンケソ(溶けたチーズと唐辛子のディップ)、それに甘いメキシカンコーラが参加者を待ち受けていた。その匂いも味も束の間の幸せだが、まだ冒険の余韻に浸っていたい。岩壁ではなく都会の高層ビルの中に戻っても、パックラフトから見た素晴らしい景色はいつまでも、心に残っているだろう。